1.「転移説」について
渋谷達紀教授による商標法3条2項に関する「転移説」は、「実際に使用されてきた商標と出願商標とがきわめて近似したものであるときは、前者について形成された識別力(セカンダリ・ミーニング)は後者に転移することがある。」とする(渋谷達紀《判批》「『ジョージア』は、紅茶、コーヒー、ココア、コーヒー飲料、ココア飲料の地理的出所表示に過ぎないか」発明82巻10号(1985)100頁、渋谷達紀『知的財産法講義Ⅲ 第2版 』(有斐閣、2008年) 347頁) 。

渋谷達紀教授の商標法3条2項についての「転移説」、拙論「あふれ説」の詳細については、拙論「商標の同一乃至同一性について」渋谷達紀教授追悼論文集編集委員会編『知的財産法研究の輪(渋谷達紀教授追悼論文集)』(発明推進協会、2016年)361頁をご覧になって戴きたい。

「転移説」と「あふれ説」との理論的な関係については、土肥一史教授「新商標の識別性と類似性」小泉直樹=田村善之編『中山信弘先生古稀記念論文集 はばたき‐21世紀の知的財産法』(弘文堂、2015年)779頁に詳説されている。

本稿では、「商標の同一乃至同一性について」では記載できなかった、「転移説」と「あふれ説」との理論的な関係が明らかにされた瞬間について、いわば裏話を記載したいと思う。

2.当時の「転移説」の理解
商標法3条2項に関する論文執筆依頼を受けて、「商標法3条2項により登録を受けた商標権に関する一考察」(知財管理5月号63巻5号677頁)を書いたが、渋谷教授の「転移説」の理解が難関であった。商標を研究されておられる研究者にお尋ねしても、声を潜められて、「渋谷先生は『転移』とおっしゃっている」というだけで、意味内容は全く判らない。渋谷先生に直接お会いして真意をお聞きする機会も得られず、原稿の締切が迫り、かろうじて引用はしたが、私の中で「転移説」の意味を咀嚼しきれないまま、恥ずかしながら脱稿した。

3.渋谷先生へのご説明
立命館大学で開催された、2013年度日本工業所有権法学会懇親会で、ようやく渋谷教授とお会し、私が思うに至った商標法3条2項についての理解をご説明することができた。私の「あふれ説」は、前記拙稿「商標の同一乃至同一性について」364頁記載の円錐形モデルに基づいて、口頭でご説明した。渋谷先生は、黙って私の横で話を聞いておられた。しばしの沈黙の後、白い右手を私の右手に差し出してこられた。そして、「漸く、実務家の中に私の説を理解する人があらわれた。『転移』なんて癌みたいでしょう。」と言われた。その後「商標法の重要論点について議論できたので楽しかった。」とのお葉書も頂戴した。

白い右手を出されたときは、ほっとすると同時に、私が悪戦苦闘してようやく思うに至った結論を25年前に出されたことに、思わず天才の技と思った。そして、もう少し判りやすいネーミングをして戴けなかったのかと、少し恨めしくも思った。

4.悪戦苦闘
弁理士の方はお判りかと思うが、商標出願業務の実際は、商標審査基準に基づいている。そのため、我々弁理士は、商標審査基準の考え方がしみ込んでおり、いわば商標審査基準に「洗脳」されている。商標審査基準では、商標法3条2項については、一貫して、出願商標と使用商標の同一乃至同一性を判断基準としている。多数の審査官の審査にばらつきが無いようにするため、商標審査基準としては、形式的に判断できるようにすることは、致し方ない点もある。他方、商標法3条2項を主張する商標登録出願はそう多いとも思えず形式的な当てはめは商標の性質からして妥当ではないと思われる。

ところが、近年、商標審査基準の考え方と対立する知財高裁の裁判例がでている。知財高判平成23年4月21日 平成22年(行ケ)第10366号判時2114号9頁「ジャンポール・ゴルチエ事件」、知財高判平成24年9月13日 平成24年(行ケ)第10002号「KAWASAKI事件」判時2166号131頁、知財高判平成25年1月24日 平成24年(行ケ)10285号判時2177号114頁「あずきバー事件」、知財高判平成19年10月31日 平成19年(行ケ)10050号裁判所ホームページ「DB9事件」等である。

商標審査基準の考え方に「洗脳」されている私には、当初これら裁判例には違和感があった。しかし、商標法3条2項の条文に立ち返ると、どこにも、出願商標と使用商標の同一乃至同一性については規定されていない。更には、商標法3条全体は自他商品識別性を有する商標を保護すると規定しているだけで、1項では本来的自他商品識別力を有する商標について規定し、2項では本来的自他商品識別力は有しないが、使用の結果自他商品識別力を獲得した商標について規定していると考えることも可能である(大西育子「商標の本来的識別力と使用による識別力」渋谷達紀教授追悼論文集編集委員会編『知的財産法研究の輪(渋谷達紀教授追悼論文集)』(発明推進協会、2016年)395頁)。

「洗脳」から離脱するのに3か月程要した。ある種、パラダイム変換が自分の中で生じ、快感であった。

4.転移説、あふれ説への評価
宮脇正晴教授は、サーチコスト理論の立場から、転移説、あふれ説について批判をされる(「商標法3条2項により登録が認められる商品の範囲」Law and Technology No.62 2014年40頁、42頁、43頁、43頁、45頁、「商標法3条1項各号の趣旨」高林龍ほか編『現代知的財産法講座1知的財産法の理論的探究』(日本評論社、2012年)359頁、365頁、366頁、370頁、371頁、372頁、「標識法におけるサーチコスト理論―Landes & Posnerの業績とその評価を中心に―」知的財産法政策学研究 Vol.37《2012》195頁)。しかし、批判内容はサーチコスト理論からのものではないと思われる。他方、サーチコスト理論と「転移説」「あふれ説」との親和性もあると思われる。

小川宗一教授は特許庁審査基準と同じ立場から批判される(《判批》「『あずきを加味してなる菓子』を指定商品とする『あずきバー』という標準文字からなる商標の登録出願について、商標法3条2項の適用を認め、特許庁の拒絶審決を取り消した事例」日本大学知財ジャーナル 7,75-84 2014/03/15(2014年)83頁)。出願商標と使用商標、指定商品と使用商品の同一性の判断基準は厳格にすべき、「実際に使用された商標、使用された商品を超えた範囲については、識別力が発揮されるかどうかは必ずしも明確なものではなく」と主張される。

他方、高部眞規子判事は拙論に賛同される(『実務詳説 商標関係訴訟』(金融財政事情研究会、2015年) 225頁)。土肥一史教授は、賛同されるとともに、拙論に「あふれ説」と命名され「あふれ説」と渋谷達紀教授の「転移説」との理論的関係を説明する(前掲「新商標の識別性と類似性」779頁)。外川英明弁理士は、拙論と同旨と思われる(《判批》「標準文字『あずきバー』からなる商標が指定商品『あずきを加味してなる菓子』に使用された結果、需要者が何人かの業務に係る商品であることを認識できるに至ったものと認められた事例」(判時2199号《2013年》162頁))。

長塚真琴教授は、「転移説」、「あふれ説」は、商標審査基準とは考えが異なると指摘される(「商品の立体的形状と商標登録―KitKatに関する2016年英国・2015年欧州両判決を題材に―」渋谷達紀教授追悼論文集編集委員会編『知的財産法研究の輪(渋谷達紀教授追悼論文集)』(発明推進協会、2016年)395頁)。

5.渋谷教授のご逝去
工業所有権法学会懇親会で議論させて戴いた翌年渋谷先生は急逝された。渋谷教授が25年前に唱えられた「転移説」が学会、実務界でも活発に議論されるようになったことは、渋谷教授も喜ばれていると思われる。

先日、途上国の実務家対象のセミナーで「転移説」を説明したところ、英語論文の所在を聞かれた。英訳されれば、「転移説」は世界的に広がる可能性があると思われる。

_                                 (RC   安原正義)