安倍晋三首相は7月25日から8月2日までの日程で中南米5ヵ国を訪問し、7月31日から8月2日にかけて最終訪問国であるブラジルを訪れた。これは、ブラジルへの日本の首相の訪問としては10年ぶりのことであり、両国の協力関係の一層の緊密化を目的としていた。安倍首相はスピーチの際、これからの日伯協力関係のキーワードとして、ポルトガル語で、「progredir」(発展する)、「liderar」(先導する)、「inspirar」(触発させる)の言葉を挙げた。
 ブラジルにとって、日本との協力関係の緊密化は不可欠とまでは言わないにしても非常に重要であることに間違いはない。日伯関係の歴史は長く、日本との関係はブラジルの農業・産業の発展に関し大きな刺激を与えた。
 ブラジルと日本の間の関係は1895年に日伯修好通商航海条約の締結から始まったが、実は、本当のスターティングポイントは、笠戸丸に乗った日本人たちが52日間かけてブラジルに到着し、正式な移民が開始した1908年といえる。初期の移民者は、当時ブラジルで使用されていた農業と漁業の技術を改良した。その改良の成功を一つの契機として移民者の数が増加し、1930年の時点で、ブラジルは既に、世界で一番多く日本からの移民者を受け入れた国であった。
 日本から新たに導入された技術の例としては、水耕栽培および農業上のプラスチックの使用がある。また、ブラジルにおいて未知だった果物や野菜を紹介し、ブラジルの風土に順応させるための品種改良が多く行われた。例として、カキ、ポンカン、イチゴやふじ (リンゴ)がある。それらの果物は、現在人々にとって一般的な食べ物としてブラジルに根付いている。また、ブラジルは現在、鶏肉の世界最大の輸出国であるが、日本からの鶏肉の飼育にかかわる指導を受けなければ、現在の程度に至らなかったとさえいえる。
 その他の顕著な例はジュート(黄麻)の育成と使用である。1930年に日本の政治家であった上塚司氏(熊本県出身の衆議院議員で当選7回、南伯開拓の先駆者上塚周平氏の甥)は国士舘高等拓殖学校校長となり、アマゾンでジュートを持続的に育成することに力を入れた。当時も、アマゾンの低湿地帯の作物には、ジュートが適しているということは理解されていたが、最初に導入された品種では失敗続きだった。そのような中、国士舘高等拓殖学校の関係者であった小山良太さんは、アマゾンで初めてジュート栽培に成功したのである。ジュートは特に、当時のコーヒー農業に使用するコーヒー袋として必要な素材であったため、国内でジュートが収穫できることは極めて有益なことであった。また、日系移民発祥の地である、アマゾンのトメアス市では、ブラジルにおいて初めて、胡椒の生産が導入された。1933年に生産が始まったが、その後ますます拡大し、現在ブラジルは世界第3位の胡椒の輸出国である。
 しかし、農業において日本から受けた最も重要な貢献は、セラード地域における、持続可能な農業生産技術である。セラードとは、ブラジル内陸中西部に広がる熱帯サバンナのことである。1974 年、日本とブラジルは協力してセラードの開発に取り組むことになり、1979 年に「日伯セラード農業開発協力事業(PRODECER)」を開始した。PRODECERの活動の結果として、セラード産の大豆とトウモロコシをはじめ、綿花やコーヒーなどの多くの農産物の生産が可能になった。1970年代の世界食料危機の中において、ブラジル国内の農作物生産量の増加は、日本にとっても大きな利益となった。
 1950年代後半、ブラジルの工業化が始まった。そこでも日本の影響は大きかった。そもそも、1958年時点では、高卒以上の学歴を有しているブラジル人の21%は日系人であり、多くの日本人は理工学部もしくは医学部を卒業したため、当時のブラジルの工業化には多くの日系人が貢献した。さらに、トヨタ、イシブラス(石川島播磨造船-後に撤退)、ウジミナス製鉄(日伯共同の鉄鋼事業)等は1950年代にブラジルに進出した。ブラジルの工業化の始まりの時点では、日本からの資本と技術の移転は極めて重要なことであった。
 ブラジルにおいて日本企業の活動の代表的な例としてはトヨタがある。トヨタは1958年にブラジルで事業を始め、翌年には海外生産第1号となるランドクルーザーFJ25Lの生産を開始した。そのモデルはその後、ブラジルの顧客のニーズに合わせた「バンデランテ」と呼ばれるモデルへと発展した。
 さらに直近の例を挙げれば、ホンダは2013年にブラジルに研究開発センターを設立した。加えて、サンパウロのイタピラナ市では新たな工場を建てることで、国内生産量の倍増を計画すると同時に、ブラジル国内で製造された部品、原材料、製造にかかわる機器の調達額を増加させることを目指している。ホンダのブラジルの子会社は、また、風力原動機による発電を開始している。
 知的財産権においても、ブラジルは、日本からの刺激を受けている。歴史的な知財判例としては1982年のYKK事件判決(TA CrimSP – HC 114.846-SP – 5a Câm. J. on 29.06.1982 – Rel. Adauto Suannes)がある。当事件は商標の冒認出願に関する事件であるが、ブラジルの現行法には、当時、冒認出願に関する規定がなかった。YKKは冒認出願人に訴えられた。仮処分レベルでは冒認出願人が勝ったものの、最終判決では冒認出願人の悪意を検討し、YKKが勝訴した。その判決から有名となったあるフレーズがある。それは、「原告は、自分の競争相手を尊重しない。すなわち、原告は消費者をも尊重していないと考えられ、それは非難されるべきことである。また、原告が司法を尊重しておらず、侵害の道具として裁判所を利用しようとしたことは、驚くべきことある」というものだった。

 ブラジルの特許制度の特徴的なところは、医薬製品に関する特許出願である。この場合特許庁からの審査のみならず、ANVISAという衛生監督局からの審査も受けなければならない。このような二重審査の範囲を明確にする主要判例としては、TAKEDA事件判決(36428-83.2009.4.01.3400. 7th Federal Court – Brasilia. Hon. José Márcio da Silveira e Silva)がある。
 このように、わずか100年のブラジル発展の歴史において、日本からの協力の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。現在、ブラジルにおいて発展のための資本と技術が再び必要となる上に、日本経済の拡大のためにも、その協力関係が有利に働くであろう。現在、ブラジルは、アジア諸国以外で日本が最も多く投資している地域である。そして、日本からの直接投資はブラジルが受けている全投資額の5%に相当する。そして、その協力関係は、さらに拡大する余地があるといえる。100年の間に培われたブラジルと日本の信頼関係を基に、今後両国が真の戦略的パートナーとして世界経済の持続的な発展に寄与することができるのではないか。安倍首相の言葉の通り、両国が「progredir」(発展)するためには、互いに「inspirar」(触発)されるのみならず、日本がその協力関係を「liderar」(先導)していくことが望まれる。

(RC カラペト・ホベルト ブラジル弁護士)