見た目の著作権(小川明子)

 人の人生は「見た目で決まる」という考え方がある。「見た目で人生決まる」をキーワードにググってみたら、481万件でてきた。全員がこの考え方に賛同しているわけではないとしても、人々の中には、自分が見た目で得していると思う人と、見た目で損をしていると思う人がいることになる。
 しかし、「決まる」とは、誰が決めるのだろうか。周りの人々が、見た目がいいことでその人を優遇するので、得をしたとか損をしたとかいうことになるとすれば、決定権はおそらく周りの人々にあるのだろう。人生は、自分で選択し、努力し、切り拓いていったほうが楽しいように思う。多少の損得があっても、それですべて決まるなどと言ってしまうのは、あまりにも運任せのような気がする。
 ただし、絶世の美女がこんなコメントをしたとすれば、おそらく炎上する。「あなたには気持ちがわからない」という批判が雨あられと降ってくるだろうが、私の場合は「残念ながら」大丈夫。なぜならば、私は見た目でいい思いをした経験はないからである。後輩のホベルト・カラペト氏(早稲田大学講師)が実物より2割以上アップグレードして描いてくれた自画像をご参照いただければ「なるほど!」となる。(私が得をしたことがあるとすれば、困った性格(適当で、かつ、しぶとい)から、周りがもうこいつに言っても無駄だとあきらめてくれるという点くらいである。)
 見た目について著作権問題が生じることはあるのだろうか。後発的になんらかの手を加えた場合、その手が「創作的な表現」であるときには、「自身の肖像権」の他、「手を加えた人の著作権」も同時に存在し得るということになる。
 顔をキャンパスとか土台と考えてみると、フェイスペインティングするのも創作的表現となる可能性がある。ペインティングであれば、洗えば落ちるが、不可逆的な場合もある。そういった表現といえそうなのは、整形やタトゥーかもしれない。ただし、両者ともに、整形医や彫師が完全に自由に施すというよりも、顧客の要望を入れる。そうなると、純粋美術というよりも建築物的な色彩が強くなるから、なかなか著作物性を主張していくことは難しい可能性も高いのではないだろうか。
 整形にも賛否はあるが、タトゥーも同様である。我が国にはタトゥー(というよりも入れ墨)の判例として、「合格!行政書士南無刺青観世音」事件[1]があるが、海外でもいくつかの判例が出されている[2]。入れ墨は、日本では任侠の人たちが好んで入れているイメージが強いが、その歴史は紀元前までさかのぼることができ、多くのミイラには入れ墨が見つかっている。刑罰としてつかわれたこともあるようだが、現代の日本では、アートやファッションとして扱われるときには、タトゥーと呼ばれるのが一般的かと思われるところだが。
 さて、本題に戻ろう。ここに顔をキャンパスとさせた勇敢(?)な男がいる。ボクサーのMike Tysonである。彼の顔のタトゥーはよく知られている。入れることを想像すると痛そうだが、仕上がりはなかなかかっこいい。どこかの種族が戦いのときにいれるような模様だなあと思ったら、これはマオリ族のタトゥー[3]を基に考えられたらしい。Tysonのタトゥーをめぐり、裁判が起きた。しかし、当事者はTysonではなく、彫師と映画会社だった[4]
 2011年4月28日にネヴァダ州の彫師であるS. Victor Whitmill氏は、Warner Brothers Entertainment社に対して、訴訟を起こした。原告は、同社の「ハングオーバー!!史上最悪の二日酔い、国境を越える」(原題:The Hangover Part II)という映画で、俳優のEd Helmsの顔にTysonと同じデザインのタトゥーが入れられていたことに対して、著作権侵害であると主張した。
 裁判所は仮差し止めのhearingにおいて、タトゥーの著作物性を認めたが、一方で、Warnerが多くの予算を本映画に投資したことを指摘し、またこれによって、Whitmillのビジネスに影響を与えることはないとした。公益の面も考慮された上で、差止は認められなかった。しかし、その後まもなく両者は和解に至る[5]
 Tysonに彫ったとき、Tysonと彫師の間ではこのタトゥーの諸権利は彫師にあるといった書面が交わされていたというが、自分の体に他人の知的財産が貼りついているというのはどんな気持ちなのだろうか。特許権のあるペースメーカーを体に入れているのとはわけが違う。何しろ自分はキャンパスなのである。著作権のあるお経を書かれた耳なし芳一といったところだろうか。
 Tysonは、自分の意思で見た目を変えた。タトゥーそのものへの賛否もあるだろうし、このタトゥーに対しては、好みも分かれるだろうがTysonは、自分で勝手に見た目を選択しており、おそらく、「人生は見た目で決まる」などと考えてもいないだろう。

 見た目はいい方がいいだろう。とはいえ、自前の見た目に人の著作物を載せて歩く輩までいるのであるから、見た目で人生が良くなると思う人たちは、見た目を変えればいい。ただし、周りの人が優遇するからではなく、自分がそうしたいからすることで、人生は自分によって選択されていることになるのではないだろうか。

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[1] 東京地裁 平成21年(ワ)第31755号、知財高裁 平成23年(ネ)第10052号

[2] 岡本岳「入れ墨と著作権」『飯村敏明先生退官記念論文集』発明推進協会 2015 p1065-1078

[3] 文化の盗用(cultural appropriation)の問題もあるのだが、この点は別の機会に譲る。

[4] Whitmill v Warner Brothers(ED Mo, No.4:11-CF-752)

[5] Marie Hadley, Whitmill v Warner Bros and the visibility of cultural appropriation claims in copyright law, 42 European Intellectual Property Review, Issue 4, 2020, pp223-229

 

〈 小川明子(招聘研究員)〉

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