🔭分岐管理論で鳴る不思議な新管楽器との出会い(岡本 岳)

   2017年7月の朝、ある新聞記事が目にとまった。ヤマハが新しい管楽器を開発し、8月30日に発売するというのである。その記事には開発の経緯が紹介されていた。ヤマハは20年以上前からシンセサイザーの音源として、メモリに記録しておいたサンプルを再生するPCM音源に代わるものとして、生楽器の発音構造や共鳴構造をコンピューターでリアルタイムに演算し音色を仮想的に合成して音を出すバーチャル・アコースティック音源を研究・開発していたが、その際、円錐管であるサックスの音を計算しようとすると、円錐管であるためコンピューターが行う演算が複雑になりすぎてしまうことから、「円錐管は2本の円筒管により近似される」という「分岐管理論」を採用して、簡単にサックスの音を出せるようにし、これを1993年に「VL1」という製品に搭載し、世界で初めてバーチャル・アコースティック音源を搭載したシンセサイザーを世に出すことができた。そして、その時の経験に基づき、分岐管理論により計算上で近似されるのであれば、これを生の管楽器にも応用できるのではないかと着想し、分岐管構造を採用した全く新しい管楽器を開発したというのである。

 この記事を読んですぐに興味を持ったのは、シンセサイザーの音を作成するためのコンピューター上の計算に適用した「分岐管理論」という音響学上の理論を現実の生楽器に応用することができたという点である。楽器の分類上、シンセサイザーは電子楽器に、サックスはリード付き吹奏楽器に分類され、その技術分野は大きく異なるから、シンセサイザーに用いられた技術をリード付き吹奏楽器に応用して新しい楽器を開発するというのは、各分野別の楽器開発に携わる技術者が単独で着想できることではなく、両分野を包含する研究機関を擁する総合楽器メーカーであるヤマハならではのことであると感心したのである。そして、全く新しい楽器の誕生はそう滅多に体験できることではないので、早速、その管楽器を予約し、8月30日の発売と同時に手に入れた。

 これが小生と新発明の管楽器「ヴェノーヴァ」との初めての出会いであった。ヴェノーヴァは、分岐管と蛇行形状を採用した独自の構造を有し、ピアノの鍵盤をイメージした白と黒を基調にした斬新なデザインの管楽器であり、また極めて小型軽量で、どこにでも気軽に持っていくことができ、一目で気に入ってしまった。しかし、楽器を手にして直ちに吹いてみたものの、小生はリード楽器の経験が全くなく、ヴェノーヴァから出てくる音は楽音とは言い難いものであった。これは指導者を求めるしかないと考え、音楽教室にヴェノーヴァを指導していただける先生を紹介していただき、以来、現在に至るまでその修行中である。

 せっかくの機会なので、この新楽器ヴェノーヴァに関係がありそうな特許技術を調査してみた。まずは、特許第2707913号「楽音合成装置および管楽器」(1992年5月8日出願・1997年10月17日登録)である。その請求項1は、「自然楽器における発音メカニズムをシミュレートして楽音を合成する楽音合成装置において、2本の円筒管を各々シミュレートした手段であって、各々、入力信号に対して少なくとも遅延処理を施して出力する第1および第2の伝送手段と、マウスピースをシミュレートした手段であって、前記第1および第2の伝送手段に供給する励振信号を発生する励振手段と、前記第1の伝送手段の出力信号の振幅を、2S/(S0+S+(S/H))[但し、S0 は前記励振手段がシミュレートするマウスピースの断面積、Sは前記第1および第2の伝送手段シミュレートする円筒管の断面積、Hは所定のパラメータを示す]なる式により求まる乗算係数αL に基づいて制御する第1の制御手段と、前記第2の伝送手段の出力信号の振幅を、2(S/H)/(S0+S+(S/H))なる式により求まる乗算係数αx に基づいて制御する第2の制御手段と、前記励振手段の出力信号の振幅を、2S0/(S0+S+(S/H))なる式により求まる乗算係数αi に基づいて制御する第3の制御手段と、前記励振手段と、前記第1および第2の伝送手段とを結合し、各々の間の信号の授受を媒介する結合手段とを具備することを特徴とする楽音合成装置。」というものであり、この特許発明により、「円筒管をシミュレートした手段によって円錐形の共鳴管を実現することができるので、簡易な構成で円錐管をシミュレートすることが可能となり、これにより、円錐管を有する管楽器の音を小規模な回路構成あるいは少ない演算量により合成することができるという効果が得られる。」とされている。同特許発明は、1993年に発売されたシンセサイザー「VL1」に搭載されたバーチャル・アコースティック音源に採用された技術であると考えられる。その明細書には、「<自然楽器の応用>以上の各実施例は、本発明を電気的な回路あるいはDSP等が実行するプログラムによって具現する場合を説明したものである。しかし、本発明の適用はこれらに限定されるものではない。本発明に基づいて既存の自然楽器を変形し、これまでにない演奏を行うことが可能な新規な自然楽器を作製することができる。」、「図26に示す第7の応用例は、本実施例による楽音合成装置の[変形例]として示したものを生楽器として実現したものである。この生楽器は、円筒管とマウスピースとの継ぎ目の部分にマウスピースおよび共鳴管を貫通する開口部800が形成されており、この開口部800に中空円筒形状のアタッチメント801が嵌め込まれるようになっている。」とあり、その図26を見ると、「中空円筒形状のアタッチメント801」は分岐管に当たる構成であると見て取れ、ここに既に新管楽器ヴェノーヴァの芽が生まれているといえよう。

 次は、特許第5811541号「管楽器の管体」(2011年2月3日出願・2015年10月2日登録)である。その請求項1は、「管状の1つの吹込部と、管状の主管部と管状の副管部とに分岐した分岐管であって、前記主管部と前記副管部とが分岐した部分に前記吹込部が接続された分岐管とを具備し、前記主管部の管長は前記副管部の管長より長く、前記主管部または前記吹込部は、前記副管部の終端部もしくは前記副管部の一部が開口した状態で所望の音高を得るための音高調整部を有し、前記副管部には、第1のオクターブ孔が設けられ、前記吹込部から気体が吹き込まれると、当該気体が前記主管部および前記副管部の双方に流れることを特徴とする管楽器の管体。」というものである。その明細書には、「図3(a)は、図1(a)の円錐管204にマウスピース300を取り付けた管楽器を示す図である。管体200は、円錐管204とこの円錐管の入口部に取り付けられたコルクからなる。このコルクを介して管体200はマウスピースの内側へ装着される。/図3(b)は、分岐管を備える管楽器を示す図である。この管楽器は、例えばサキソフォーンのように、マウスピース内から管体が開始する図3(a)のような構造を持つ管体全体を分岐管で近似する。」とあり、図3を見ると、(a)にはテーパー管を備える管楽器の図が、(b)には分岐管を備える管楽器の図が記載されている。そして、この特許発明により、「1オクターブの音域の音を発音する分岐管を有する管楽器において、2オクターブの音域の音を発生させることができる。」とされている。実際にヴェノーヴァは2オクターブの音域をカバーしており(フラジオレットでは更に高音域も演奏可能である)、この特許発明が実施されているものと考えられる。

 さらに、特許第6149922号「管楽器の管体」(2015年12月4日出願・2017年6月2日登録)がある。その請求項1は、「管状の主管部と、前記主管部に沿って配置された管状の副管部と、前記副管部の終端部もしくは前記副管部の一部が開口した状態で所望の音高を得るための音高調整部とを備え、前記主管部の長手方向の端部に開口する開口部と前記副管部の長手方向の端部に開口する開口部の各々がリードを介さずにマウスピースの端部に開口する開口部に通じるように配置されることを特徴とする管楽器の管体。」というものであり、この特許発明により、「分岐管を有する管楽器において、管楽器が発音する音域における音色の変化を抑制することができる。」とされている。

 なお、特願2015-192843「管楽器」(2015年9月30日出願)は現在審査中のようであるが、その請求項1は、「管体と、前記管体の外周から延びて形成され、前記管体の内側に開口する内側開口端、及び、前記管体の外側に開口する外側開口端を有する複数の音孔管と、を備え、複数の前記音孔管の外側開口端が該外側開口端を塞ぐ手指に対応した位置となるように、前記管体及び前記音孔管の少なくとも一方が曲がっている管楽器。」というものであり、この発明によれば、「管体と、前記管体の外周から延びて形成され、前記管体の内側に開口する内側開口端、及び、前記管体の外側に開口する外側開口端を有する複数の音孔管と、を備え、複数の前記音孔管の外側開口端が該外側開口端を塞ぐ手指に対応した位置となるように、前記管体及び前記音孔管の少なくとも一方が曲がっている管楽器を提供する。/ …管体と、前記管体の外周から延びて形成され、前記管体の内側に開口する内側開口端、及び、前記管体の外側に開口する外側開口端を有する複数の音孔管と、を備え、前記音孔管は、複数の前記音孔管の外側開口端が該外側開口端を塞ぐ手指に対応した位置となるように、前記音孔管の軸線が前記管体の径方向に対して傾斜する斜行管部を有する管楽器を提供する。」ことにより「管楽器の音響的な性能、及び、管楽器の操作性の両方を容易に確保できる。」とされている。この発明は、ヴェノーヴァの蛇行形状に関係するものであり、同発明により、ヴェノーヴァはコンパクトなサイズで、かつ、たくさんのキーを使わずに指でトーンホールを押さえる構造を実現しているものと考えられる。

 もう一つ注目すべきは、ヴェノーヴァは、分岐管と蛇行形状を有する斬新なデザインを有しているという点であり、ヤマハは、このデザインについて意匠登録第1547946号(意匠に係る物品:管楽器)、同第1547947号(同・部分意匠)、同第1547948号(同・部分意匠)を取得している。そして、ヴェノーヴァの斬新なデザインは、日本の2017年グッドデザイン大賞を受賞している。審査委員の評価では、「既存の楽器の表層のデザインでなく、新しい楽器そのものを生み出している。リコーダーのような優しい指使いで演奏ができ、サックスと同等の吹き心地を実現させたプロセスに評価が集まった。また、サックスの音を実現するために検討された分岐管構造はもちろんの事、蛇行形状によって生まれたフォルムも本体の持ちやすさを助けており、完成度の高い商品である。」(グッドデザイン賞のホームページから)とされている。

 さて、ヴェノーヴァの修行は現在も続いている。最初は楽音とはいえないような音しか出せなかったが、師のご指導で音色が良くなっていくのが実感できている。そうすると、この小さくてシンプルな管楽器から本格的な音が出ることが魔法のように思えてナントも不思議な気がし、表題では「不思議な新管楽器」と呼ぶことにした。

 楽器を習うことによっていろいろ良い果実が得られるとも実感している。まず、音楽の聞こえ方が変わったということである。これまでもコンサートやCDなどで音楽を聴く機会はたくさんあったが、プロの演奏が上手なのは当たり前のことのように感じていた。しかし、自分で楽器をいじってみると、正しい音程を出すというはじめの一歩のところからナント難しいのだろうと感じてしまう。そして、プロの演奏家の楽器をコントロールする力がどれほど素晴らしいものかと感心してしまうのである。また、アンサンブルやセッションを聴くと、それぞれのパートがどのように動いていくのかに関心が向くようになった。音楽を聴く耳が変化したように思う。

 次に、音楽を通じたコミュニケーションが広がったように感じている。音楽を習うことによって、師と出会い、その知り合いの演奏家や同好の士とも知り合い、様々な演奏会と出会うことができた。また、音楽自体がコミュニケーションであると感じている。これまでは、演奏家が演奏し、聴き手である自分はそれを受け止めるという関係しかなかったが、レッスン自体が、師の音を聴きながら、自分の演奏を合わせるというコミュニケーションであり、そこに演奏する楽しみがあるということを体験している。

 まだまだ友人たちとアンサンブルやセッションを楽しむというレベルには達していないが、この新楽器を通じて楽しいコミュニケーションができるよう、これからも日々修行に励んでいきたい。

—- <岡本 岳>—-  

注:Venovaの画像はヤマハ株式会社様から提供していただきました。(RCLIP事務局)