新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する緊急事態宣言は2020年5月25日に解除された。しかし,第2波,第3波も懸念されており,事態が完全に収束したわけではない。世界を見ても,感染は拡大しており,新型コロナウイルスの脅威が続いている。
WHO決議で特許権を制限?
そのような状況の中,2020年5月19日のWHO総会において,我が国を含む複数国が共同提案した決議 “COVID-19 response”(以下,「WHO決議」という。)が採択された[1]。
WHO決議の中で特に注目を集めたのは,COVID-19に対するWHOの対応について中立・独立・包括的な検証を行うことをWHO事務局長に要請した点であろう。WHOをめぐる米中の対立なども背景に,多数の報道がこの点を報じていた。
他方, 2020年5月20日付け日本経済新聞は,「ワクチンに特許制限 安く広く普及目指す WHO採択,米は慎重姿勢」との見出しの下で,WHO決議がワクチン開発企業の特許権に制限をかけ,安くワクチンを供給することを目指すと報じた。新型コロナのワクチンを誰でも公平に利用できるようにするために,強制実施権を活用するというのである。このニュースに接したとき,筆者は,唐突には感じたものの,それほど大きな驚きを覚えなかった。なぜなら,日経新聞はそれ以前にコロナ薬の特許権に制限をかけようとする動きがあると報じていたし(2020年4月16日「コロナ薬『特許に制限』浮上」との見出しの記事),筆者自身も,知的財産権がCOVID-19対策の妨げとなるのではなく,これをサポートするようにWIPOがリーダーシップを発揮すべきことを求めるWIPO事務局長宛オープンレター [2]に署名したことや,他の研究者等との私的なやりとり[3]から,いずれ,そのような類の議論が生じ得ることは想定できたからである。
そこでWHO決議を確認したのだが,文面上に,特許権の制限あるいは強制実施権の文言は見当たらない。代わりに述べられているのは,TRIPS協定及び「TRIPS協定と公衆衛生に関する宣言」(いわゆる「ドーハ宣言」。以下,「ドーハ宣言」という。)との整合性を確保しつつ,不当な障害を緊急に取り除いたり(パラ4),自発的な特許プール・ライセンスなどの既存のメカニズムで協力したり(パラ8,なお,パラ9(8)も参照)することである。文面を読む限り,WHO決議は,特許権の制限や強制実施権の活用を明言しているわけではない。実際,日経新聞自身も,その後の5月22日に「特許制限に副作用大きく コロナ薬で技術共用進む」との見出しの記事で,WHO決議はあくまで自発的な取組みを重視したものであるとの専門家のコメントを紹介し,先の自らの記事の内容を修正しようとしているようにも見える[4]。
そのようにWHO決議が特許権者の自発的な取組みを促したに過ぎないと理解するならば,特許権者側としても目くじらを立てる必要はないはずである。ところが,米国政府(在ジュネーブ国際機関米国政府代表部)は,WHO決議は,バランスがとれておらず,イノベーターに誤ったメッセージを送るものであると反発 している。先の日経の記事と同様に,米国も,WHO決議に強制実施権の影を見たのかもしれない。
ドーハ宣言の残像?
明言されていないにもかかわらず,WHO決議が強制実施権を想起させるのは WHO決議がドーハ宣言に言及しているからだろう。
本コラムの読者にはご承知の方も多いであろうが,ドーハ宣言は,2001年11月,WTOドーハ閣僚会議において採択された。当時,アフリカ等の途上国を中心にエイズ(HIV/AIDS)が蔓延し,公衆衛生上の深刻な問題となる一方で,途上国にとって抗エイズ薬の経済的負担は大きく,特許が途上国における医薬品アクセスを妨げているとの批判が生じた。これに対しては,特許がスケープゴートとされているといった声もあったが,WTO閣僚会議は,ドーハ宣言を採択することで,特許と医薬品アクセスの問題についてひとまず決着を図ろうとした[5]。
ドーハ宣言(原文,骨子)のポイントの一つは,TRIPS協定は,各国が公衆衛生上の必要な措置を取ることを妨げるものではなく,各国に,どのような場合に強制実施権が許諾されるかを決定し,強制実施権を許諾する自由を認めていることを確認した点である。確かに,強制実施権は,TRIPS協定31条において認められた措置である。同条は,強制実施権を許諾することができる理由(実体要件)には踏み込まず,許諾する際の条件を定めるのみであるが(コンディテョン・アプローチ),その条件に関しても,強制実施権を許諾する前に要求される権利者との事前協議の義務が「国家緊急事態」の場合に免除されることを許容している(31条(b))。ドーハ宣言では,さらに,何が国家的緊急事態に当たるかについても各国が決定できることを確認し,HIV/AIDSなどの感染症が国家的緊急事態に当たり得ることを認めた[6]。
このように,ドーハ宣言は,感染症のパンデミックといった緊急事態において,各国が独自の判断により権利者との事前協議なしに強制実施権を許諾できることを再確認した。別の言い方をすれば,公衆衛生上の緊急事態における強制実施権の許諾にお墨付きを与えたともいえる。そのような観点からドーハ宣言に言及したWHO決議の行間を読むと,強制実施権の許諾にお墨付きを与えてその積極利用を促すものとWHO決議を解釈することも全く的外れとはいえないであろう。そのような解釈をも許すWHO決議の玉虫色の文言は,各国の思惑が交錯した国際交渉の妥協の産物と推測できる(そのこと自体は,この種の文書において珍しいことではないだろう。)。
特許権を制限すべきか?
ドーハ宣言の例からわかるように,公衆衛生上の緊急事態において,医薬品などの特許権を強制実施権などにより制限すべきか否か,という問題は,今回のコロナ渦に限らず,従前から存在する。特許制度は,発明を創作するインセンティブを確保するために排他的独占権を付与してイノベーションの促進を図るが,社会は一定期間排他的独占権のコストを支払う必要があるとの前提に立つ。しかしながら,甘受すべきコストが生命・健康に関わるものである場合に,発明の保護と利用のバランスをどのように図るかは悩ましい。各国・各人の立場によっても異なろう。
ドーハ宣言の契機となったHIV/AIDSについては,感染の中心がアフリカ等の途上国である一方,特許権の多くは先進国企業が有することから,あえて単純化すれば,強制実施権の積極的な活用を訴える途上国に対して先進国がこれに警鐘を鳴らす構図が見て取れた。
これに対して,新型コロナウイルスの感染は先進国を含む全世界に広がっている。先進国の中にも,強制実施権などの特許権の制限に前向きな国が出てきても不思議はない。実際,カナダでは,2020年3月にCOVID-19対策を講じる法改正の一環として,政府使用[7]の規定の中に,保健大臣の申請により公衆衛生上の緊急事態への対応に必要な範囲で特許庁長官が政府使用を認める規定を新設している(ただし,2020年9月末まで)[8]。その他,ドイツでも2020年3月にCOVID-19対策の法改正の一環として,公共の福祉のために用いられる発明について特許権の効力が及ばないとする命令を保健省が発することが可能とされたようである[9]。
それとも自発的取組みに委ねるべきか?
他方において,特許権の制限のような強硬な措置ではなく,特許権者によるライセンス供与や権利不行使宣言などの自発的な取組みの動きも顕著になってきたように思われる。そのような自発的取組みとして有名な例の一つが,Facebook, Amazon, Intel, IBM, Microsoftなどが創設メンバーであるOpen Covid Pledge である。このプロジェクトには幾つかのライセンスが用意されているが,その一つは,COVID-19パンデミックを収束させる目的のためにのみ用いる場合に,特許権や著作権などの知的財産権(商標及び営業秘密を除く。)について,非排他的・無償・全世界的なライセンスを供与するとしている(OCL-PC v1.0)。参加者にIT企業が多く,医薬品・ワクチンなどの開発にどこまで有効かという問題はあるが,医薬品そのものの発明ではなくとも,研究に有用なIT技術・AI技術や,医療機器をはじめ医療現場で用いられる様々な器具などもあることからすれば,一定の意味はあろう。
また,我が国企業が主体となったプロジェクトとして「知的財産に関する新型コロナウイルス感染症対策支援宣言」がある。このプロジェクトの参加者は,COVID-19の蔓延終結を唯一の目的とした行為について,商標権および営業秘密以外の知的財産権(特許権,実用新案権,意匠権,著作権)の権利行使を行わない旨を宣言する。権利不行使宣言という形をとっているが,Open Covid Pledgeの同様の取組みといえよう。これらのプロジェクト以外にも,個別企業が自発的に幅広いライセンス供与あるいは権利不行使を表明する例は少なくない[10]。
そのような中で,安倍晋三内閣総理大臣は, 緊急事態宣言を全国において解除することを発表した2020年5月25日の会見において,COVID-19の「治療薬やワクチンを、透明性の高い国際的な枠組みの下で途上国も使えるようにしていく特許権プールの創設を,来月予定されているG7サミットで提案したいと考えています」と表明した。詳細は不明であり,医薬品の物質特許を考えるとパテント・プールが有効かとの疑問もあるが,これもOpen Covid Pledgeなどと同様,COVID-19対策に資する発明と幅広く考えれば,全く無意味ではないだろう。いずれにせよ,特許権者による自発的対応を志向するものであることは明らかである。
そして,間接的であれ,COVID-19対策に資すると考えられる自発的取組みの意義を否定する必要はない。強制実施権などのような強硬な措置を用いずとも済むのなら,それに超したことはない。WIPOのガリ事務局長は,いかなる政策も多数の自発的取組みの存在を踏まえる必要があり,有効なワクチンや治療薬が存在しない現状では,それらを生み出すイノベーションを奨励することを優先すべきで,存在もしないワクチン・治療薬へのアクセスを重視することは順序が異なり,必要な投資にとってマイナスに働くとの声明lを発表している。上記の自発的取組みには,ワクチン・治療薬の開発に直接・間接に資するような知的財産の利用を可能にするという側面もあり,そのような意味でも自発的取組みが有効に機能することを期待しつつ,その推移を今後とも注意深く見守りたい。
特許権の制限を議論する意味はあるか?
もっとも,自発的取組みに期待することは,強制実施権などの措置の存在意義がないことを意味しない。我が国では,強制実施権が許諾された例がなく,「伝家の宝刀」と言われてきた。もっとも,強制実施権という「伝家の宝刀」には,私的交渉を促進し,最終的な合意形成を後押しする側面もあると考えられる[11]。そうであるならば,(通例,抜くことは想定されないとしても)「伝家の宝刀」を抜いたときに,それが竹光ではなく,実際に使うことができるものであることを検証しておく必要もあるだろう。そのような観点からすると,強制実施権(あるいはそれに代わる措置)についても課題を整理し,議論を深めておく意義は失われていないといえるのではないだろうか[12]。
中山一郎
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[1] 我が国を含む複数国の提案した決議案とその概要(邦文)は,厚生労働省のサイト 参照。
[2] もっとも,オープンレターの力点は,強制実施権の積極的活用というより,各国には知財システムの柔軟性の活用を,権利者にはライセンス,パテント・プール,不行使宣言などの自発的な対応を呼びかける点にあると思われる。
[3] 高倉成男明治大学教授,加藤暁子日本大学准教授及び松任谷優子弁理士とのやり取りからは,本コラムを執筆する上で有益な示唆を得た。記して感謝したい。むろん,誤解等があったとすれば,全て筆者の責に帰する。
[4] 日経新聞は,2020年5月25日付け「ワクチン特許共有 支持」との見出しの記事でも,強制実施権よりも特許の自発的共有こそが重要であるとのWIPOのタン次期事務局長のインタビューを掲載している。
[5] このあたりの事情については,当時,短いコラムに書いたことがある。
[6] その他に,当時,議論となったのは,医薬品の生産能力が不十分又は無い途上国には,国内に強制実施権を設定すべき企業が存在しないという問題である。そのため,外国で強制実施権により生産された医薬品をそれらの途上国に輸出しようとすると,強制実施権は主として国内市場への供給のために許諾することを要求しているTRIPS協定31条(f)に反するおそれが生じる。この問題については,その後,31条(f)の義務を一定の条件の下で適用しないとする規定(31条の2)が新設される形でTRIPS協定が改正され,同改正は2017年1月23日から発効している。
[7] 強制実施権は,政府が特許権者の許諾なしに第三者に実施権を強制許諾する制度であるのに対して,政府使用は,政府自身(政府の業務を委任された等の一定の範囲の第三者を含む。)が特許権者の許諾なしに特許発明を使用することができる制度であり,厳密にいえば両者は異なる。もっとも,特許権者の許諾なく特許発明を使用できることやその場合に対価を支払う必要があることは共通しており,TRIPS協定31条は両者をカバーしている。政府使用の立法例は,米国などのコモンロー諸国に見られる(28 U.S.C §1498など)。私見では,第三者に侵害の自白を強いるに等しい強制実施権よりも,政府にイニシアティブがある政府使用の方が実効性が高く(TRIPS協定31条(b)は,政府使用については,国家的緊急事態でなくとも特許権者との事前協議要件を免除している。),迅速な対応も可能であることなどの理由から,公衆衛生上の緊急事態といった真に必要な場合には政府使用の方が有用ではないか,と考えている。その詳細については,拙稿「我が国における公衆衛生上の緊急事態と特許制度による対応可能性」知的財産研究教育財団編『医療と特許』(創英社/三省堂書店,2017年)152頁以下を参照されたい。
[8] An Act respecting certain measures in response to COVID-19のPart12により,特許法に19.4の規定が追加された。
[9] WIPOがCOVID-19対策として各国の政策をまとめたCOVID-19 IP Policy Trackerにおける立法措置のセクションlegislative and regulatory measures の情報に基づく。
[10] 注9でも言及したWIPOのCOVID-19 IP Policy Trackerでは,Voluntary Actions というセクションを設けて,各団体・企業による自発的対応を紹介している。
[11] 古いデータであるが(2004年11月時点),不実施(特許法83条)9件,利用関係(特許法92条)14 件の裁定請求が行われているが,いずれも裁定に至る前に取り下げられている(産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会特許戦略計画関連問題ワーキンググループ「特許発明の円滑な使用に係る諸問題について」)。このことは,裁定制度の存在が,裁定請求後の当事者の交渉に影響を与えて合意が成立し,裁定請求が取り下げられたことを示唆しているように思われる。
[12] 注7で述べたとおり,筆者は,強制実施権よりも政府使用の方が有用ではないかと考えているが,その点を措いても,強制実施権にはなお検討すべき課題があると考えている。具体的には,「公共の利益のために特に必要であるとき」(特許法93条1項)の意味内容(経済的理由のみでも「特に必要」といえるのか,他に代替品が存在すると「特に必要」とはいえなくなるのか,裁定により問題が解決されなければ「特に必要」とはいえないのか等),TRIPS協定上は国家的緊急事態に免除される事前協議要件について我が国の特許法には緊急事態でもこれを免除する規定がないこと,裁定申請中の実施を認める規定がないことなどが挙げられるが,これらの点についても注7記載の拙稿を参照されたい。