高林先生から、原稿のご依頼を戴いて、判決を基に、何か書こうかと思いました。しかし、家庭の事情でこの6年間碌に判決を追い切れておりませんので、真摯に研究されている方に失礼に思いました。
そんな折、知りあいのある先生から、今年2月に亡くなった父へのお悔やみメールを頂きました。その先生のお父様は、東京帝国大学法学部在学中学徒動員され、特攻隊出撃直前に終戦になったとのことでした。私の父は、知財関係の弁護士として人生の大半を過ごしておりますが、中央大学法学部在学中に学徒動員しておりました。
学徒動員、戦争体験世代が亡くなり、それを伝聞した我々世代も高齢化して、戦争体験の伝承ができなくなっています。
父は、3年前の8月、日本弁護士連合会の機関紙「自由と正義」に学徒動員について、書いております。父は生前、戦前の雰囲気と日本は似て来たことに、危機感を持ったので書いたと言っておりました。それまで、戦争体験は、私にも話すことはありませんでした。
日本弁護士連合会の許諾を得て、父の原稿を転載して戴こうと思います。
「私の軍隊戦争体験記(安原正之)」こちらから
日本弁護士連合会会報誌「自由と正義」
第69巻第8号2018年8月号 p6-9
(転載許可 日弁連広第87号 2021.11.9)
※無断で再転載することを禁止
併せて、「自由と正義」には、書かれていない、私に話してくれたことが若干ありますので、併せてご紹介したいと思います。何故、「自由と正義」に書かなかったのかを聞きましたが、本人は生前答えてくれませんでした。
(1)上陸米軍攻撃訓練
終戦直前、相模湾から上陸してくるマッカーサー指揮のアメリカ軍戦車を迎えうつために、厚木の寒川神社近くに、塹壕を掘ったそうです。戦車の5m前に20kgの黄色火薬を投げつけ、自分は塹壕に飛び込んで助かる訓練をしていたそうです。この訓練は、沖縄戦の経験を活かしたものだったと言っていました。どの点に、経験を活かしたのかは、聞いておりません。
黄色火薬の投擲訓練では、黄色火薬に付いていた紐に服が絡まって投擲に失敗して、右腕を失った学徒動員の東大法学部生が居たそうです。その方は戦後検察官になられて、裁判所で会ったそうです。そのときお互いに「オー」「オー」と言いあったそうです。
戦車の5m前に黄色火薬を投擲して、自分は塹壕に飛び込んで生き残れるのか、陸上自衛隊を佐官で退官した知り合いに聞いたことがあります。「特攻でないのが救いだ」との答えでした。砂地では戦車は約時速20kmで走行するようです。時速20kmで走行する戦車の5m前から足場の悪い砂地で逃げるのは、困難なようです。
しかし、父は、私に話すときも、黄色火薬を戦車に投擲後も生き延べられると信じていました。
(2)マッカーサー上陸の護衛
父は、終戦後も日本陸軍に残され厚木基地防衛に当たらされました。厚木基地では、敗戦を認めない海軍軍人が居り、反乱日本軍から上陸してくるマッカーサーを防御する役目でした。但し、米軍上陸後は、直ちに武装解除されたそうです。
父は、交戦経験は無いと言ってました。前橋陸軍予備士官学校で同室の父以外の候補生はフィリピンに転属され多くは戦死されたそうです。
以上
〈 安原正義(RC)〉