私は2023年の1月でワシントン大学ロースクールの教員となってから30年目を迎える。1989年9月に初めてシアトルに到着したときには、アメリカ法の基礎を学ぶためアジア法LLM卒業まで1年足らず滞在し、2年目はワシントンD.C.のジョージワシントン大学の知財LLMで様々な特許科目を履修し、出願実務も経験してから日本に帰国する予定だった。この予定は、私の修士論文を指導したチザム教授のシアトルに残って博士論文を書くようにという勧めで変更され、3年間に延長された。更に博士号取得後、帰国の挨拶に行った際に、教授の作った研究所を手伝ってくれないかという申出を受け、研究所立ち上げの数年間だけ研究員として働くつもりが、サンタクララ大学に移ったチザム教授の後を引き継ぐことになり、いつのまにかアメリカでの滞在期間が日本より長くなってしまった。ワシントン大学に留学した第一の理由は、特許部員として働いていた外資系半導体企業でアメリカ本社から送られてくる出願を特許庁の基準にあわせて日本出願することに苦労していたので、アメリカ特許法を知りたかったことだった。一方、日本企業よりはましかと思った外資企業でも、理系出身ではない女性社員が、特許部でできることは限られているという閉塞感から逃げ出したいという願望もあったと思う。弁理士資格を取得しても、特許部での仕事や役職に変更は無く、女性は男性社員のサポートという前提で電話してくる発明者への対応に辟易していた。私の愚痴を聞いていた夫が求人雑誌で破格の条件で電気分野の弁理士を探している永田町の法律特許事務所を見つけ、面接で3年以内の留学の約束を取り付け、弁理士合格から半年足らずでその事務所に移ることになった。

全米で最もリベラルな都市の一つであるシアトルに来て、このような日本での経験は、今年、日本知財協会(JIPA)の依頼でアカデミアから見たダイバーシティというテーマで講演を依頼されるまで、全く忘れていた。そのため、JIPAからの「女性だからあきらめたこと、消極的になったことはありませんか」という質問に対し、当初、無いと答えてしまった。後から、チザム教授から研究所を引き継いだ際のロースクールのディーン(校長)とのやりとりを思い出した。30代前半の女性が所長だと日本や欧州からくるセミナー講演者や参加者に研究所が軽くみられるのではないかという理由で、私はディーンの研究所所長就任の依頼に消極的であった。まだテニュア(終身職)取得前なので昇進に必要な論文の数に影響するかもしれないとは考えたが女性だからということは全く考えなかったというディーンの答えに自分が知らず知らずに日本社会の女性観に縛られていたことに気づいた。ジェンダーフリーな言葉で私の背中を押してくれたディーンのおかげで、研究所の所長として、20年以上、世界中の知財の研究者や法曹関係者と仕事をすることができ、セミナーを通して地元のアメリカ特許弁護士に日本や欧州の特許制度を紹介することで、微力ながら特許制度の国際調和に貢献できたように思う。最近は、知財LLMやサマープログラムを通して教育した学生たちの弁理士、弁護士、審査官としての活躍をSNSで知ることも多く、このように人生を充実させてくれる天職につかせてくれた今は亡きディーンに感謝してもしきれない。

実は、JIPAから依頼されるまでは、私は、ジェンダーというテーマを意図的に避けていたような気がする。ワシントン大学ロースクールの教授は半数以上が女性で、現在はディーンも主要な役職も女性が占めているし、私がアメリカにきて研究者を志した30年前でも、私のロールモデルとなってくれたRochelle Dreyfuss, Jane Ginsburg, Windy Gordon等著名な女性の知財の教授は多かったので、シアトルに来てからは、ジェンダーによる問題はすっかり忘れていた。また、女性がジェンダーの問題をとりあげると、権利意識や男性の言動に過剰に反応すると面倒な女と思われ疎まれるという偏見を私自身が持っていたことも否めない。そのような私も、役員や従業員の多様性が技術革新や企業の成長によい影響を与えるという認識はアメリカでは常識であるという大手半導体企業の法務部長の見解を自分が主催したセミナーで聞き、ジェンダーとビジネスや研究開発の関係に興味を持つようになった。経済学者や社会学者の実証研究を調査してみると、多様性の中でもジェンダーの影響が特に大きく、女性管理職の割合が中央値を超える企業は、自己資本成長率が高く、創業者の女性比率が高いスタートアップ企業の生き残る確率が高いというデータが公表されていた。更に、ジェンダーの多様性がイノベーションの成果に良い影響を与えるとする研究成果も多数発表されていた。

このような研究は、ジェンダーが単なる社会正義の問題ではなく、企業経営・イノベーション戦略の重要なファクターであることを示している。そのため、アメリカや欧州連合の政府は、研究の多様性や質の向上のため、女性の理系(Science, Technology, Engineering, Mathematics: STEM)人材を増やす施策を積極的に行っている。知財分野では、国際機関であるWIPOが、活動計画の重要課題としてジェンダー平等を掲げ、女性発明家支援に向けた各種啓蒙活動を行っている。USPTOやEPOも各庁の出願における女性発明家の割合を毎年公表し、男性との格差を是正する各種取り組みを行っている。更に、研究者が中心となって企業と協力し、全世界規模で、ジェンダーのみならずイノベーションに係る者の多様性を拡大するプロジェクトも始まっている。2021年にWIPOが発表したデータによると、日本の女性発明者を含むPCT国際出願の割合は10%で、先進国の中では最低の69位である。アジアのその他の国と比べても日本の女性発明者を含む出願の割合増加は鈍く、益々欧米と比べ、格差が開く傾向にある。このような現状にも拘わらず、日本政府やJPOによる格差是正のための積極的な活動はみられない。微力ながら、欧米の研究者や企業と協力して、日本政府やJPOに働きかけ、女性研究者・発明者の増加によって日本のイノベーション促進に貢献していきたいと思う。

 
〈 竹中俊子(RC)〉