RCLIPは2003年に上村達男教授を拠点リーダ―として採択された21世紀COEプログラムの活動の一環として設立され、当時は早稲田大学知的財産法制研究センターと名乗っており、2008年には後継のグローバルCOEプログラムの活動の一環として2013年まで活動を継続し、その後はプロジェクト研究所としての組織である早稲田大学知的財産法制研究所(英文名は同じくRCLIP)として活動を現在も継続している。2003年に採用された21世紀COEプログラムの活動としてその後も20年近くにわたって継続されている組織はRCLIPを除いては一切ない。  
 私はその間継続してRCLIP所長として組織における研究活動に関わってきたが、2022年度をもって70歳の定年退職をするに伴い、RCLIP所長も退くことになった。退任するに当たって語っておきたいことは山ほどあるが、70歳で退く高齢者として繰り言を述べることを避け、これからの早稲田を支えてくれるこの4月に法学部1年生となる学生に対して贈る言葉を、法学部のThemis誌のために執筆したので、本コラムではこれを引用してその責めを塞ぐことをお許し戴きたい。
 
「裁判官として17年間、学者として28年間を経て」
 私は1978年4月から1995年3月まで裁判官として、1995年4月から2023年3月まで早稲田大学の学者として過ごしてきた。その前も1976年4月から1978年3月までの2年間は司法修習生であったから、総計すると何とも長いこと司法の実務と研究・教育に携わってきたことになる。裁判官の職務としては、当初は合議体の左陪席として、医療過誤事件や国家賠償事件などの大型事件の処理にやり甲斐を感じ、その後は私人間の小さな訴訟事件を単独体で処理して当事者双方から感謝されることにもやり甲斐を感じるようになり、さらには転勤に伴って全く異なる知的財産専門部での事件処理や最高裁調査官としての最先端の専門的分野の理論面での調査などに執務も興味範囲も変化してきたが、丁度その頃に天啓に導かれたかのように実務を離れて研究者・教育者としての道に進むことになった。研究者・教育者としてのスタートは42歳と遅く、かつそれまで老練な最高裁判事を相手にした仕事をしていたのが一転して、若い仲間のようなゼミ生らと共に勉強することは、本当に楽しかった。その後2年半の米国在外研究を経て、10年間、21世紀COE、グローバルCOEとして早稲田大学知的財産法制研究所(RCLIP)を設立して、アジア諸国や欧米の研究者らと活発な交流をし、早稲田から世界に通用する優秀な知的財産法の学者を多数輩出することができたことも、大いに誇れることである。
 総じていうならば、転勤や転職等も含めて変化に富んだ47年間であったし、変化に伴う苦労も並み大抵ではなかったが、いずれの変化も苦労も、新しい挑戦であったという意味では、大変に楽しく、常に新たなやり甲斐を感じさせてくれた。このような要所要所での変化は、私が求めた結果とばかりはいえず、目の前に必然のように用意されていたものも多い。私が、裁判官から学者に転じるか悩んでいた際に、今は亡き父に「幸運の女神には後ろ髪がない。」と一言いわれたが、幸運は目の前に現れたとしても、自らがアクションを起こさなければ引き寄せることはできない。
 早稲田大学に入学した皆さんには、輝く未来が用意されていることは間違いない。コロナウィルスの影響で、勉強や大学生活に種々の障害がまだまだあるだろう。しかし、このような障害など物ともせずに投げ飛ばして、自分の明るい未来に向かって、幸運の女神を自らの力で引き寄せて、豊かな大学生活を、そして人生を形作って行って欲しい。
 

〈 高林龍(RCLIP所長)〉