裁判官は弁解せず

 知的財産法の分野は活況を呈している。この活況の背後には、政府が知的財産戦略を推進していることの他に、 裁判所による知財訴訟に対する積極的な改革への取り組みが存在する。これに関わる裁判官の対外的な活動もまた注目される。裁判官が研究会や学会などに積極的に参加し、 意見を述べることも多くなった。一昔前では考えられなかったことだった。
 ここに、「裁判官は弁解(弁明)せず」という法諺(ほうげん)がある。これは、けっして、 不十分な裁判をしても弁解しないでいいという意味ではない。裁判官は裁判という公開の法廷で全てをさらけ出して裁判をするから、 それ以外に補足し弁解すべき何ものも残らないという意味に過ぎない。この誤解は、三宅正太郎(まさたろう)大審院判事の書物などを読む限り、戦前から指摘されていたことのようだ。
 裁判官が判決書その他の場所で豊かな言葉で能弁に語ることは、実務の進歩に資するとともに、知的財産法の学問としての発展に大きく寄与する。 語られた言葉に存在する一定の「理性」を認識し、それを体系化するのが研究者の仕事である。語られる言葉がなければ、そこには研究者にとっての学問の対象がない。
 三宅判事は、「発言する勇気のないことを「弁解せず」の裏にかくれて曖昧に葬り批判を免れようとする態度はあるまじきことである」とも述べておられた。 少なくとも、現在、わが国の知的財産に関わる裁判官の方々は、公の場所で、学者や弁護士の批判に果敢に挑もうとしている。かえって学者や弁護士を打ち負かすことも多いようだ。 判決書もまた雄弁である。司法を取り巻くこの自由な雰囲気が長く続けばよいと思う。

参考文献:三宅正太郎著『裁判の書』(昭和18年)105頁以下(「卑怯」より)

早稲田大学助手 今村哲也 (2004/10/25 update)