ヴェノーヴァ、サクソフォーン、そしてアドルフ・サックス(岡本 岳)
2019年7月のこのコラム「分岐管理論[1]で鳴る不思議な新管楽器との出会い」【https://rclip.jp/2019/07/30/201908column/】では、2017年8月から新発明の管楽器ヴェノーヴァとの付き合いが始まったことを紹介しました。ヴェノーヴァは、分岐管を備えることで、円錐管であるサクソフォーンに近似した音色を実現(特許第5811541号発明の詳細な説明の段落【0017】)した新管楽器です。「近似した音色を実現」していると言われますと、似せられているもとの楽器の方にも興味が惹かれ、サクソフォーンに手を出してしまいました。今回は、そのサクソフォーンの発明と発明者であるアドルフ・サックスについて書くことにいたします。
サクソフォーンは、ベルギーの楽器製造業者アドルフ・サックスが発明した管楽器です。アドルフ・サックスは、1814年、ベルギーのディナンで楽器職人シャルル・ジョセフ・サックスの子として生まれ、父親の下で楽器職人としての腕を磨いて若い頃から管楽器の製作、改造に取り組み、確かな技術を身に付け、高い名声を得ていたようです。アドルフ・サックスは、金管と木管を折衷した、円錐状の本体にクラリネットと同じシングルリードを有するマウスピースを付けた新しい管楽器の開発に取り組み、1846年にはこの新しい管楽器についての特許を取得しています。
そこで、この特許について調査してみました。フランス産業財産庁(INPI)のウェブサイト[2]には、「19世紀の特許」というアーカイブがあります。そのアーカイブの検索画面に行き、「申請者・代表者名で検索」のキーワードに「sax」を入れて検索しますと、アドルフ・サックスの特許がいくつも出てきますので、その中から「1BB3226」の行の「Voir la notice」をクリックしますと、「タイトル サックスと呼ばれる管楽器のシステム」、「出願年 1846」、「寄託者 SAXアントワーヌ=ジョセフ・ディット・アドルフ」、「出願日 21/03/1846」、「発行日 22/06/1846」などの書誌事項が表示されます。また、「Voir le dossier」をクリックしますと、出願書類が表示されます。そこにアーカイブされた文書は、手書きのものでブラウザーの自動翻訳が働かず、フランス語ができない私にはその記載内容を読むことができないのですが(どなたか日本語訳を教えてください)、添付された図面(下図のとおりです)を見ますと、ベルを有する曲げられた略円錐状の管本体の上部に、曲げられたネックがあり、ネック上方の開口部には、シングルリードを取り付けるマウスピースが装着されている管楽器であることが分かります。そこに図示された管楽器は、現在のサクソフォーンとやや形が異なりますが、正にサクソフォーンの原型といえるものです。
この新しい管楽器の名称「サクソフォーン」は、発明者であるアドルフ・サックスの名前に由来し、1842年には、ベルリオーズが、担当するコラムでこの楽器を「ル・サクソフォーン(le saxophon)」と表記して紹介していたということです。[3]なお、このサクソフォーンの特許を巡っては、同業者との間でいくつもの訴訟が争われ、アドルフ・サックスを消耗させたようです。
アドルフ・サックスは、新しく発明した管楽器サクソフォーンが交響楽団や軍楽隊で使用されることを想定していました。当時、あまり評判が高くなかったフランスの軍楽隊にサクソフォーンの採用を働きかけ、軍楽隊再編のために設立された委員会が開催した演奏合戦に勝利し、高い評価を得て採用され、フランスの軍楽隊の質を向上させ、さらには、各国の軍楽隊にも採用されて、サクソフォーンは世界に広まっていったようです。サクソフォーンは、ベルリオーズ、ビゼー、ドビュッシー、ラヴェルなど当時の大作曲家の楽曲に取り入れられ、クラシック音楽界の支持を得ていきました。1920年代にはダンスバンドに採用され、ビッグバンド・ジャズで活躍するようになり、さらに、ジャズのソロ楽器としても、その地位を確立していきました。現在では、サクソフォーンは、「サックス」の名称で、クラシックよりもジャズの世界で活躍が目立っているように思います。
私は、これまで多くのクラシック音楽を聴いてきましたが、楽曲中でサクソフォーンがどこで演奏されているのかについてはあまり認識していませんでした。最近、自分がサクソフォーンを手に取るようになって、ムソルグスキー作曲ラヴェル編曲の「展覧会の絵」の「古城」のソロはアルト・サクソフォーンであったのだということを、指導の先生から教えていただき初めて知りました。「展覧会の絵」の中でアルト・サクソフォーンは「古城」だけが出番ですので、サクソフォーン奏者の須川展也氏は「この曲、オーケストラの中で演奏する時、命がけなんですよ。」とおっしゃっています。[4]最近、ドビュッシー作曲の「アルト・サクソフォーンと管弦楽のためのラプソディ」をよく聴いていますが、この名曲の存在もサクソフォーン曲集のCD[5]に収録されていたことで初めて知りました。クラシック音楽にはサクソフォーンのために作曲された名曲がたくさんありますので、皆さんも是非探して聴いてみてください。
ヴェノーヴァとサクソフォーンの両方を手にしていますと、二つの管楽器の違いを意識するようになります。まず、先輩のサクソフォーンですが、パーツの数は約600もあり、トーンホールは25個、[6]正に機能を追求したマシンといった印象です。他方、ずっと後輩のヴェノーヴァは、「キイなどの部品の数を最小限に抑えたシンプルな構造」[7]で、トーンホールは11個しかありません。ヴェノーヴァはサクソフォーンより170年も後から生まれた楽器であるのに、その構造はシンプルな方に変化しています。これは私の全く個人的な印象にすぎませんが、この方向性は、道具に対する西洋と日本の指向の違いにあるように思えます。西洋の管楽器は、吹き口にリードを付けたり、キイでトーンホールを押さえやすくしたり、より鳴らしやすく、効率の良い方向に発展してきました。これに対し、日本の管楽器である尺八は、全く別の方向に進化したようです。[8]極端な一般化かもしれませんが、道具は、西洋ではより効率的・機能的な方向に進化していくのに対し、日本ではよりシンプルで自由度の高い方向に進化していくようです。例えば、弓は、西洋ではクロスボウのように機能を向上させるために機械的な構造が複雑化していったのに対し、和弓では素材を改良して威力を増す方向に進化しましたが、機械的な構造自体は極めてシンプルです。そういう目で見ますと、よりシンプルな方向に変化したヴェノーヴァは、日本的な楽器と言えなくもありません。
このようにして、私と楽器との付き合いはあっちこっちにいってしまい、今では、ヴェノーヴァ3本(ソプラノ2、アルト1)、サクソフォーン3本(ソプラノ1、アルト1、デジタル1)という状態になってしまいました。これは楽器に手を出した人がよくはまってしまう陥せいのようで、どれも中途半端になってしまわないように用心しなければならない状況です。
さて、アドルフ・サックスは、その肖像から受ける印象のように強烈な個性の持ち主だったようで、サクソフォーンという素晴らしい新管楽器を発明しましたが、事業の過程で多くの敵が現れ、同業者との訴訟、3度の破産、病気などで消耗し、1894年に失意のうちに世を去ってしまいます。しかし、アドルフ・サックスと彼の発明したサクソフォーンは、ベルギーの誇りであり、ユーロが流通する2002年までベルギーで使われていた200フラン紙幣には、アドルフ・サックスの肖像とサクソフォーンの画像が描かれていました。アドルフ・サックス生誕の地であるディナンには、アドルフ・サックス通りがあり、そこにはアドルフがサクソフォーンを持ってベンチに座っている銅像があって、人気の撮影スポットになっているということです。また、ノートルダム教会側と対岸のディナン駅側を結ぶシャルル・ド・ゴール橋の両側にはサクソフォーンの美しいオブジェが設置されているということです。旅行ができるようになりましたら是非訪ねてみたいと思っています。
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「円錐管の音響特性は分岐した円筒管で近似できる、という理論。「円錐ホーンの反共振周波数の球面波理論による解析-円錐形管楽器の鳴る周波数」(実吉純一、1977年)より。」YAMAHAニュースリリース2017年07月10日…ヤマハ カジュアル管楽器 『Venovaヴェノーヴァ』
なお、本文中の日本語の記載は、ブラウザーの自動翻訳により表示されたものです。
[3] マイケル・シーゲル「サキソフォン物語 悪魔の角笛からジャズの花形へ」(青土社)20頁
「須川家おうちライブvol.50「古城」 Il vecchio castello」
[5] Femke Steketee - La Fille et le Saxophone
なお、この曲の最も古い録音(1929年)を、
で聴くことができます。今のサクソフォーンとは、かなり音色が違って聞こえます。
YAMAHA楽器解体全書「サクソフォン」
[7] 前掲注1YAMAHAニュースリリース2017年07月10日
[8] 詳しくは中村明一著「倍音-音・ことば・身体の文化誌」(春秋社)160頁以下をお読みください。
〈 岡本岳(RC)〉