デ・ハビランドのこと(上野達弘)

 デ・ハビランドの名を初めて聞いたのは、イギリス人特許弁理士であるDarren Smyth氏から問い合わせを受けたときだ。同氏は、英国特許弁理士会(CIPA: The Chartered Institute of Patent Attorneys)のジャーナルに掲載する記事のためにデ・ハビランドのことを調べているということであった[1]

 デ・ハビランドは、明治時代に日本にやってきたイギリス人で、サッカーを指導したり、日本の弁理士として特許事務所を開設したりなど、なかなか面白い人物である。そこで、本コラムはその一端をご紹介するものである。

1 サッカーの伝道者として
 ウォルター・オーガスタス・デ・ハビランド(Walter Augustus de Havilland〔1872-1968〕)は、1872年にイギリスに生まれ、1893年にケンブリッジ大学を卒業すると、実兄が暮らしていた日本にやってくる。函館や神戸で日本聖公会系の学校等で英語を教えるなどした後、第四高等学校(現・金沢大学)や東京高等師範学校(現・筑波大学)の教員を歴任する一方で、サッカーの指導にも力を入れたようである。日本におけるサッカー競技の歴史については諸説あるが、その黎明期にあってデ・ハビランドの活動は「組織的なサッカーの始まり」と評されている。

2 特許弁理士として
 デ・ハビランドは、1906(明治39)年、東京高等師範学校を辞し、特許事務所を開設した。すでに日本の「特許代理業者」(弁理士)として活動していた英国人ウィリアム・シルバー・ホール(William Silver Hall)氏の業務を引き継いだ同事務所は、現在の丸の内にある旧三菱第二号館にあった。現在は美術館にもなっている三菱一号館(2009年再建)と同じイギリス人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)が設計した洋館である。

 もちろん、彼らが日本弁理士としての資格を有していたのか気になる読者は多かろう。日本は、1899(明治32)年にパリ条約に加入したが、その際、明治32年の旧特許法[同年法律第36号]と共に制定した特許代理業者登録規則[明治32年勅令第235号]により、「特許代理業者」として登録を受けるためには、特許代理業者試験に合格することを要するものとされた(2条1項)。しかし、同規則によると、「帝國大學分科大學又ハ之ト學科程度同等ト認ムル内外國ノ學校ニ於テ定規ノ課業ヲ卒ヘタル者」(3条2号)は試験を経ずに登録できるとされていたのである(同条柱書)。そのため、ケンブリッジ大学を卒業していたデ・ハビランドは日本の特許代理業者として登録できたと推測される。

 1909(明治42)年の旧特許法[同年法律第23号]が制定される際、特許弁理士令[同年勅令第300号]が定められ、「特許弁理士」という名称に変更されるほか、旧特許法97条によって、「特許弁理士ニ非スシテ特許ニ関スル代理業ヲ営ミタル者」に刑事罰が科されるようになった。そして、1921(大正10)年の弁理士法[同年法律第100号]によって「弁理士」の名称が用いられるようになったのである。

 デ・ハビランドは、太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年頃まで日本に滞在するが、それまでの間に同氏の名前が代理人弁理士として表記された特許出願公告等はJ-PlatPat(特許情報プラットフォーム)でも確認できる(例:特公大15-011033[2])。

 

 

 

 

 

 

 

3 囲碁のプレイヤーとして
 デ・ハビランドは、囲碁のプレイヤーとしても知られている。現在の日本棋院が設立されるより前の囲碁組織である方圓社にも通っていたとされるほか、英語で『The ABC of Go: the National War-Game of Japan』という解説書も出版した[3]。次女の伝記には、デ・ハビランドが囲碁に興じる姿が収録されている[4]

 

 

 

 

 

 

 

4 アカデミー賞女優の父として
 デ・ハビランドの二人の娘は、日本で生まれた後、有名な映画女優になった。姉のオリヴィア・デ・ハヴィランド(Dame Olivia Mary de Havilland〔1916-2020〕)は、『風と共に去りぬ』(1939年)など多数の作品に出演し、『女相続人』(1949年)でアカデミー主演女優賞を受賞し、妹のジョーン・フォンテイン(Joan Fontaine〔1917-2013〕)も『断崖』(1941年)でアカデミー主演女優賞を受賞している。デ・ハビランド自身も95歳まで生きたが、娘のオリヴィアは、2020年7月26日に亡くなるまで、104歳まで生きている。

5 早稲田大学教授?
 実は冒頭に触れた問い合わせとは、デ・ハビランドが、生前、早稲田大学で法学の教授をしていたか、という質問だった。たしかに、英語版のWikipediaには、「who became professor of Law at Waseda University」との記述が見られ[5]、根拠とされる文献[6](筆者未入手)も引用されている。また、娘ジョーンのWikipediaにも、デ・ハビランドについて「早稲田大学法学部教授に転身し」たとの記述が見られる[7]

 早稲田大学には、その前身である東京専門学校が1882(明治15)年に開校したときから法律学科が存在し、1902(明治35)年に早稲田大学と改称した際にも法学科は設置されていた。しかし、デ・ハビランドが早稲田大学で法学の教授をしていたことを裏付ける資料は現在までに発見されなかった。少なくとも法学教授であったという事実は正確でないように思われるが、さらなる調査を期したい。

〈上野達弘(RCLIP副所長)〉

[参考文献]
柴田勗「〔黎明期・北海道のフートボールの胎動〕 伝道師役を果した2人のデ・ハビランドの謎」比較文化論叢12号1頁(2003年)
大久保英哲「日本学生サッカー前史:四高外国人教師デハビランドとヴォールファルトのフットボール」体育学研究58巻1号331頁(2013年)

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[1] Darren Smyth, Walter de Havilland An Englishman in Meiji Japan, 49(10) CIPA Journal 31 (2020).

[2] https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-T15-011033/6A5BC698B4FA20FCE9D45CA841FBDE21DFAEEECB4ACFCC8CDCC7826D5AD4097E/12/ja

[3] Walter Augustus De Havilland, The ABC of Go: the National War-Game of Japan,(Kelly & Walsh, 1910).

[4] Joan Fontaine, No Bed of Roses: An Autobiography, (William Morrow 1978) p.74.

[5] https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_de_Havilland(2021年4月30日最終閲覧)参照。

[6] Fairbairn, John; Hall, T. Mark, The Go Companion: Go in History and Culture, (Slate & Shell, 2009) pp.69–70.

[7] https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョーン・フォンテイン(2021年4月30日最終閲覧)。

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