著作権法の文字数の増加からみえるもの(今村 哲也)

 現行著作権法(昭和45年制定)は累次の法改正を重ねて,権利保護と利用のバランスを図りながら,緻密で正確な法体系を構築してきた。しかし,その緻密さとのトレードオフとして,枝番も含めて,条文数がかなり増えただけでなく,法律全体の文字数も確実に増加している。制定当時の文字数は28146字であったが,令和2年の法改正では85043字まで増えており,制定時よりも3倍以上に増えている(表:著作権法の文字数の増加)[1]。下記の表には含めていないが,令和3年の著作権法改正でも,文字数は確実に増加した。この増加傾向は,旧著作権法と比べると,ますます顕著となる[2]。そして,たしかに,その文字数に連動した精密さによって,著作権法の法令としての規律密度は高まり,社会の状況に適応するかたちでより正確になったといえる。

 

 

 

 

   
   

【拡大図】

 

 

 このように,著作権法の分野において,法律の規定が難解になることについては,さまざまな利害関係者の意見や政策意図,技術の発展を考慮しつつ,法文の正確性を維持することから生じる必然的な傾向であり,諸外国でも同様であるといわれている[3]
 このようなグラフを示すと,あたかも文字数が増えることに対して,筆者はネガティブに捉えているとも受け取られかねないが,必ずしもそうではない。
 文字数が増えたのは,権利保護と利用のバランスを図った結果であり,その目的自体は必ずしも悪いことではない。住所の項目と文字数が多ければ,正確に目的地が特定できるのと同様に,法律の文字数が多いことは,目的をより正確に達成する。また,仮に分量が増えて複雑に見える規定があったとしても,単純な文理解釈だけでその意味内容が把握できるような法の意味内容を明らかにするコストが小さい法律であれば問題はない。そして,著作権法の主な読み手の法解釈リテラシーが高ければ,それは人々の意思決定を変えて特定の行動を促すためのインセンティブとして有効に機能する。
 ただ,実際,現行著作権法が複雑であって一読して理解が困難な条文があることが,専門家の口から語られることもしばしばある。また,一億総クリエーターという言葉に象徴されるように,著作権法は,業法からの脱皮によって著作権法における実際の名宛人が多様化・多人数化しており[4],その結果,この法律の実質的な名宛人の法解釈のリテラシーも一様でなくなっている。複雑すぎる著作権法は,その法の意味・内容が社会に浸透するのに相当な社会的コストを課しているかもしれない[5]
 もっとも,担当の省庁によって立案され,厳密な法制局審査を経ている法律は,文字数が多くても,それに比例して最高レベルの正確性をもつ規範となっているのは事実である。学生が課題レポートの文字数を稼ぐのとは訳がちがう。法律は,その一文字一文字が人類の英知の結晶でもある。しかし,未来永劫,これまでと同じ水準で増やしていくわけにもいかないだろう。
 そうなると法律以外の手に頼るということになってくるが,他方で,社会における人々の意思決定を左右するルールが,法律以外の枠組みによって定められることが,必ずしもよいことというわけでもない。たとえば,「契約」をデザインすることはその当事者が互いの行動の予測可能性を担保する上で最も確実な手段であるが,強者が弱者の意思決定を一方的にコントロールすることになる場合もある。また,プラットフォームが設計する「アーキテクチャ」も,その掌で活動せざるをえない人々の意思決定を否応無しにコントロールすることがある。これらが横暴の域に達したときにそれを牽制できるのは,最終的には法律しかない[6]
 ということで,結局のところ,著作権法の文字数が増えていることがよいことなのか,よくないことなのか,筆者にはよく分からない。分量の多い法律を教えるのが面倒になったようにもみえるが,逆に,言語化されていない規範を正確に教える方がより困難である。また,制定されて以来1文字も増えていない日本国憲法の例もあるが,「判例」が圧倒的に多いので,それよりは(教員としては)救われている気もする。いずれにしても,もっと長期的なスパンでみたときに,法律自体がどれくらい複雑になってもよいのかは,ひとつの論点として考えられてもよいかもしれない。

 著作権法から少し離れるが,およそ四半世紀ほど前,早稲田の学部生であった私は商法ゼミに所属していた。当時は「会社法」という名前の法律はなく,新しい会社法が制定されたのは2005年であったが,東京大学(当時)の神田秀樹教授が,2006年に著された『会社法入門』(岩波新書)の「あとがき」で以下のことを述べられていたことが印象に残る:
 「新しい会社法の条文は,21世紀にふさわしいルールを書ききろうとしたときの日本語という言語自体の限界を示しているように思う。数学と同様の言語革命を伴わない限り,条文の言葉としてのわかりにくさは改善できないだろう。こうした点が人類の歴史のなかで将来どのようになっていくのか。私には非常に興味深い」[7]
 改めてこれを読んでみて,業法分野の法律でルールを書ききろうとすると,日本語の限界もあって,同じような状況に陥ることもあるのかもしれないと感じた。なお,現在の会社法は単体で40万字を優に超えている。今回,改めてこの入門書の新版(2015年)も手にしたが,「あとがき」だけ読み[8],そこまでに至る巨大な森に思いを巡らせながら,とりあえずそっと閉じた。

 筆者が会社法を完璧に読みこむ必要が生じる機会は,今後なかなかありそうにないので安心であるが,著作権法については,この実定法を研究しているという立場上そっと閉じるわけにもいかない。改正の度に増える文字数と格闘しなければならない日々はこれからも続きそうである。

〈今村哲也(RC)〉
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[1] 著作権法の表題,目次,改正附則を除いた「第一章 総則」の部分から最後の条文までの文字数をカウントした。データについては,貞廣知行氏のウェブサイトで整理されている「著作権法の改正」<http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/c.htm>(2021年5月27日最終閲覧)に基づいて行った。同サイトでは産業財産権法の制定・改正もすべて整理されており,極めて有用である。

[2] 旧法に関しては条文構成上,改正附則も含めた。

[3] H. Bosher and D. Mendis, ‘Swings and Roundabouts: The Impact of Legal Drafting on the Language and Understanding of Copyright Law and the Need for Educational Materials’ (2016) International Review of Law, Computers and Technology, 30 (3) 211.

[4] 中山信弘『著作権法』(有斐閣,第3版,2020年)3頁以下参照。

[5] 比較するために,産業財産権法の文字数の変化についても調べたが,同じように増えている。ただ,産業財産権法は今でも「THE業法」であろうから,読み手に高度なリテラシーを求めてもある程度は差し支えないであろう。今村研究室HP<https://sites.google.com/site/infocomiplabo/contents/wordcount >参照。

[6] 法律以外のハードローとして,司法府の判例や行政立法による対応も可能であるが,基本的には,法律の解釈の範囲内あるいは法律の委任の範囲内での対応となる。

[7] 神田秀樹『会社法入門』(岩波新書,2006年)213-214頁。

[8] 「はじめに」はアマゾンで試し読みできるが,「あとがき」は購入しないと読めないことを付記する。

 

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